最近、ブログの更新ができなかった。
理由は色々あるが、要はブログに費やせる時間がなかった。
今日書く内容は先週あたりに思ったことだ。
毎週土曜日は息子のダンスの習い事がある。
先週土曜は、ダンスレッスンの会場が変わり新しい場所になった初日だった。会場の確認をしつつ夫婦で息子のダンスを見た。
2年生となった息子。ダンスも習い始め数か月経った。同学年の男の子も入って来て、楽しそうダンスを踊っていた。
その子以外にも、中学生や小学校高学年の子も一緒に習っている。入った当初は先生が私の息子に合わせた少し簡単な内容にしてくれているようで少し気まずかったものだ。
習う前、息子は家で自己流のダンスをしていて、私は「うまいなー」と思っていた。妻が見せているダンスの動画を真似て踊って楽しみ、踊りに興味を持ったようだった。
ダンスを習い始めた頃、終わった後息子は「疲れた~」とよく言っていた。家で好き勝手に踊っていた時とは勝手が違う。教わったことがなかなかできないこともしばしばあった。
偉かったのが、毎週疲れた思いをしても、ダンスがうまくいかなくても辞めたいと言わなかったことだ。もし息子がそう言っても、私はダンスを辞めさせるつもりはなかった。
私は、家で自由に踊っている彼のダンスと、習ったことを踊るダンスのそれぞれの感覚が、いずれつながっていくだろうと思っていた。
よく言われることだが、大人でも初めてのことをすると疲れるものだ。免許取り立てなら、しばらくは自動車を運転するたびに疲れるだろう。1つ1つの動作、例えばアクセルを踏む、ウインカーの操作、ワイパーを付ける、などをいちいち考えながら行うからだ。
運転に慣れると、どの動作も考えなくても自動的にできるようになる。鼻歌を歌いながらでも運転できるし、考え事もしてしまう。リラックス状態で、運転を楽しむことができるのだ。
息子のダンスも、少しずつそうなっているのではないか。今まで習い踊ってきたダンスの動きが積み重なり、細かく教わらなくてもできるようになってきた。
息子は、今はダンスが終わっても「疲れた」とは言わない。まだ教わってすぐできるわけではないものの、ダンスを楽しめている。
まったくもって、先生のおかげであるのだが、息子のダンスの先生は、教えるのが上手だなあと、見ていて思う。
首を前後に動かす動きを教えているとき、首を引く動きを、先生は「二重あご」。と言っていて、つい笑ってしまった。
以前、ランニングマンの動きを息子に教えているとき、先生は1つ1つの動きを分解し、言語化して息子に伝えていた。息子は繰り返し練習し、スムーズにできるようになった。
先生は、その場で走っているように見えるランニングマンの動きを、考えないでできてしまうに違いない。しゃべりながらでもできる。家に帰ったらあれをしようか、これをしようか考えながらいつもの道を運転していく熟練ドライバーのように。
どこかで読んだのだが、サッカーのネイマール選手は、敵をドリブルで抜くとき、考える時の脳波はほぼ出ないそうだ。熟達するということは、考えなくてもできるということなのだ。
我々も、例えば掛け算九九は熟達していて、自動的にできる。数限りなく繰り返したからだ。計算の意味も、一応分かったつもりでいる。
ところがそういう熟達したことを誰かに教える時は、自分の中で自動化された過程を、1つ1つ分解し、言葉に直して分かりやすく相手に伝え、できるようにしていかなければならない。それが、相手に教えるという、一つの姿のだと思った。
昔、私が塾の講師をしていた時、講師希望の学生が面接のあと子どもを教える体験をしていた。するとその学生が子どもに「どうして分からないの?」と言っていた。
きっと、その学生にとっては自動化されて当たり前すぎるの学習内容を子どもができていなくて、その内容の本質を分解し、言語化し、子どもに伝えることができなかったのだ。その学生は、学歴は私より高かったが、うちの塾の講師にはなれなかった。
息子は2年生。かけ算九九を習う学年である。習い始めは「疲れたー」と言うに違いない。
今週、世界が平和でありますように。